自分の好きな日本酒と本格焼酎、児島ジーンズも売ってる変な酒屋です

僕の3.11…その②

 
この記事を書いている人 - WRITER -
佐藤 浩一
1972年 福島県双葉郡浪江町生まれ 元々は父親が酒ディスカウントとしてやっていたお店を専門店に方向転換し、福島県いわき市平で自分の好きな日本酒と本格焼酎を販売する酒屋『酒のしのぶや』三代目店主です。酒屋ですが正規販売店として児島ジーンズも販売しています。小学校6年生から続けて柔道は参段。最近はソニーα6000で写真を撮るのが好きです。

 

 

 

前回より続きます。

僕の3.11…その①はこちらからどうぞ。

 

全身真っ白の警察官

眠れぬ夜を過ごした僕は朝方5時ごろだったろうか、外に出て残り少ない貴重なタバコを『これからどうしよう』とか『傾いちゃったお店は建て直しだよなぁ…』なんて考えながら、吸っていたというか無意識にふかしていただけだったかもしれない。

ボーッと考え事をしていた僕の目に全身真っ白なタイベックスーツ(作業員の方達が着ている白い不織布のツナギ)を着て、手袋にゴーグルにガスマスクをした2人の警察官の姿が飛び込んできた。

よく映画とかテレビのガス事件等で見たことはあったが、人生で初めてガスマスクをした人を実際に目の前にした時の恐怖。

即座に重大な危険を感じた僕は『何かあったんですか?』と聞くと、『いや、なんでもない』と警察官の一人が答えた。

『いやいや、なんでもないのになんでそんな格好してるの?』と問い詰めると、『実は放射能が漏れてるかもしれない』とボソッと答え、そのまま立ち去ろうとするので『俺らだけじゃなくて中にいる人全員に伝えなきゃダメじゃん!』と強い口調で言うと、警察官は中にいた役場の人に伝え足早にその場を離れて行った。

 

一気に動いた

体育館にいた人達全員が一気に動いた。

何の情報もない中でとりあえず山の方に向かって逃げろってことになり、浪江から国道114号線を中通り方面に向かった『津島(つしま)』地区に車で向かったのだが、他の避難所の人達も一気に動き出したので大渋滞になってしまった。

ちなみにネタバレだと思うので浪江町津島地区という所は、あのTOKIOがテレビでやっていたDASH村があった場所で、ウチのお客様が材木を搬入したりお客様が技術指導に行っていたりしていた場所。

津島中学校に一時的に避難する形になったのだが、11日の夜と12日の朝を食べていなかった子供達のために、近所にあった商店で子供達が食べそうな物を奥さんが買ってきた。

しかし、食べ物がない子もいたので食べる時は車の中で食べる感じで、楽しいはずのお菓子を食べる時間すら子供達には窮屈な思いをさせてしまった。

 

メルトダウン

昼食の配給が届きみんなで準備していた時だった。

状況判断をするため車のラジオに聞き耳を立てていた親父が血相を変えて僕のところにやってきた。

『ラジオでメルトダウンしたって言ってる。メルトダウンしたらここもヤバイからもっと離れるのに中通りに行くぞ』と即断即決で、昼食も食べずにそのままとりあえず郡山に向かった。

メルトダウンという単語を初めて聞いたのが震災の次の日。

ウチの親父は昔原発関係の下請けの仕事や原発内の清掃業や、原発で働く人達の仕出し弁当業などの仕事もしていたことがあり、原発に勤める人達とも交流があってメルトダウンしたらヤバイってことを知っていたようで、移動を決めるのも早かった。

配達の軽自動車と母ちゃんの軽自動車の2台に叔母さんの乗用車1台の計3台で逃げてたのだが、途中ガソリンの残量が不安になり下り坂ではギアをニュートラルに入れて走ったりして、運良く通り道にスタンドがありその時はまだ満タンに入れることができた。

途中に川俣町や松川町を通り二本松市に抜け国道4号線を南下して郡山を目指した。

 

郡山のホテルに到着

郡山市に着いた僕達はその日泊まるところを探していて、中通りも同じように震災で被害を受けた地域なので、なかなか泊まれる場所がなかったのだが、郡山警察署向かいのルートインに飛び込んでみた。

『浪江から避難してきたんだけど今日泊めてもらえませんか?』とフロントで伝えると、震災の後片付けをしていた女性スタッフさんが『申し訳ありませんが当館も震災の被害を受けてお風呂のお湯が出ないので、通常料金をいただけないのでお泊まりいただく事ができないんですよ。』と言われた。

帰る家も泊まるところもないことを伝えると上司の方に話をしてくれたらしく、お風呂が出なくてもいいという条件で泊めてもらうことができ、ここでも本当に感謝しかなかった。

部屋に荷物を運び、と言っても着の身着のままだったので着替えすら無かったので、とりあえず部屋で休憩し近くでご飯を食べられる場所を探したら、ちょうど隣に牛丼の松屋がありメニューは普通の牛丼だけだったけど、前日のお昼ご飯を食べてから何も食べていなかったので牛丼を食べることに。

1日半ぶりのご飯だったけどこの僕が並盛りでお腹がいっぱいになるほど、僕達は肉体的にも精神的にも疲れきっていた。

後から聞いた話だがホテルで寝れると思った途端に寝落ちしてしまった僕ですが、奥さんはシッカリしていて続く余震にいつでも逃げられるように荷物と靴を玄関先においていて、寝ずに避難に備えていたそうだ。

 

被災者特別料金

ホテルで目が醒め朝食を帰る所を探そうと下に降りると、部屋に泊まれなかった被災した人達がロビーの床で雑魚寝していて、部屋のベットで寝れたことへの感謝とロビーで寝ていた人達への申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

ホテル側のご厚意で暖かい朝食まで用意されていて、ご飯を食べられる事とホテル側のご厚意に本当に感謝しかなかった。

でも連泊はできないから次の寝られる場所を探す事になったのだが、当時喜多方で警察官をしていた後輩に連絡し会津の方で泊まれる所がないか探してもらったら、熱塩加納村にある【山形屋】さんという温泉宿で震災の次の日にも関わらず『被災者特別価格』を設定し泊まれるとのことで向かうことに。

後輩と途中で合流し着の身着のままで出てきたので着替えを買うことになり、サイズの合わない普段は絶対に着ないであろう洋服を買うはめに。

旅館に着くと大変なのはお互い様なのに旅館の方に優しいお声をかけていただき、部屋に通されお風呂の案内をしてもらった。

やっとお風呂に入れる…。

小6の息子が『やったぁ〜お風呂だ〜』と大きな声で叫んだ。

ごく当たり前のようにお風呂に入っていたが、僕自身お風呂に入れる事への感謝の気持ちを持ったのはこの時が初めてだった。

湯船に浸かりひと時の安心感に湯船の中で寝そうになった。

ウチの息子なんか『お風呂入ってきて良い?』と何度も聞き、よほどお風呂に入れるのが嬉しかったのか次の日の朝も含めて7回も入ったそうだ。

『有り物で作ったのでこんな物しかありませんが…。』と申し訳なさそうに旅館の方に言われた晩御飯は、食べれることが当たり前じゃないんだって改めて思い一口ずつ噛み締めながら食べた。

 

次の日には別の避難所へ

親切にしていただいて『ずっとお泊まりいただいていても大丈夫ですよ』と言ってもらったのだが、色々とあり朝ごはんを食べて違う避難所へ向かうことになった。

またガソリンを気にしながらの長距離移動で、なるべくガソリンを使わないようにエコ運転に務めた。

到着したのは鮫川村の体育館。

多くの避難した人達が身を寄せ合いながら不安な気持ちを押し殺して、今後のことやどうやってここまできたのかを話していた。

夜になり寝ようかと思っていたところに従兄弟から連絡があり、富岡町にある福島第二原発もヤバいかもしれないと聞かされた。

家族会議の結果、第二原発までダメだと福島県はダメになるから県外に行こうとのことで、そのまま横浜の姉のところに向かうことに。

高速道路は通れないしガソリンも満タンでは無かったが、とりあえず向かって行けばなんとかなると、なんの根拠もないまま走り出した。

下道を休憩しながら一路横浜に向かって行ったけど、子供達は配達の軽自動車ハイゼットカーゴ(通称もぐら号)の後ろの席で、座席に娘が横になって寝て足元に息子が横になって寝て、早くゆっくり広々としたところで寝かせてあげてかった。

ナビも付いてなくスマホの地図が頼りで時間にして18時間。

ようやく横浜の姉の家に到着した。

この記事を書いている人 - WRITER -
佐藤 浩一
1972年 福島県双葉郡浪江町生まれ 元々は父親が酒ディスカウントとしてやっていたお店を専門店に方向転換し、福島県いわき市平で自分の好きな日本酒と本格焼酎を販売する酒屋『酒のしのぶや』三代目店主です。酒屋ですが正規販売店として児島ジーンズも販売しています。小学校6年生から続けて柔道は参段。最近はソニーα6000で写真を撮るのが好きです。

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

Copyright© 酒のしのぶや三代目店主の戯言です , 2018 All Rights Reserved.